Wednesday, May 14, 2025

「炭素をめぐる駆け引き――排出権市場の黎明」―2001年6月

「炭素をめぐる駆け引き――排出権市場の黎明」―2001年6月

2001年当時、日本は環境政策の新たな局面を迎えていた。地球温暖化への対応が国際的な責務となるなかで、「排出権取引」という新しい経済メカニズムが急速に注目を集め始めていた。排出権とは、企業や国家が温室効果ガスの排出を一定量まで許される「権利」を指し、これを「売買」することで全体の排出量を抑制しつつ、経済効率を保つことを目的とする。だが、この制度は当時まだ制度設計が途上であり、理論と実践の狭間で揺れていた。

この時代背景の核心にあるのは、1997年の京都議定書である。京都議定書では、先進国に温室効果ガスの削減義務が課せられたが、その実施手段として排出権取引(キャップ・アンド・トレード方式)や共同実施(JI)、クリーン開発メカニズム(CDM)といった「柔軟性メカニズム」が提案された。しかし、肝心の制度の詳細は詰め切れず、2000年のCOP6(ハーグ会議)では各国の意見が激しく対立し、決裂していた。

そのような中でも、日本企業は素早く動き始めていた。2001年5月、三菱商事をはじめとする13社が東京都中央区に新会社「ナットソース・ジャパン」を設立した。この企業連合には、コスモ石油、東京ガス、住友商事、豊田通商、東京電力、大阪ガス、みずほ証券、そしてアメリカの排出権取引仲介最大手ナットソース社などが名を連ねた。資本金は3億3200万円。設立当初の事業は、排出削減プロジェクトのコンサルティングと、排出権クレジットの仲介である。日本企業が発展途上国で省エネ設備を導入し、削減した分のCO₂排出量を「クレジット」として取得し、それを自社分に充てたり市場で転売したりするという構想だった。

この新会社の設立は、日本国内で本格的な排出権市場を作るための布石であった。同年6月、コスモ石油はオーストラリアの植林企業と契約を結び、将来吸収されるCO₂に対する排出権をあらかじめ購入できる「オプション契約」を締結。契約金額は約6200万円。企業はすでに実際の排出量ではなく、「将来の排出吸収予測」に賭けるようになっていたのである。

一方で、制度の不確定性という大きなリスクも存在した。アメリカ・ブッシュ政権は2001年3月に京都議定書からの離脱を表明し、国際合意の根幹が揺らいでいた。にもかかわらず、日本や欧州の企業は排出権ビジネスへの参入を加速させていた。まるで「制度が決まっていなくても、先に動いた者が市場を取る」と言わんばかりに。

英国では政府主導で国内排出権取引市場の創設が準備され、2002年から運用開始。アメリカでも「シカゴ気候取引所(CCX)」という名称で、25の大手企業が独自の炭素市場を開設する計画を発表していた。これらの動きに共通していたのは、政府による制度設計を待たず、企業が先に市場ルールを作ろうとしていたことである。まさに「制度より先に市場が動く」現象が起きていた。

排出権取引には、「ベースライン・アンド・クレジット方式」という方式も含まれていた。これは、企業が既存の排出量よりもどれだけ減らせたかを基準にして、減少分だけの「クレジット」を獲得できる仕組みである。しかし、将来的にこのクレジットが国際的な市場で認められる保証はなく、企業はリスクを抱えながら先行投資に踏み切っていた。

この動きを後押ししていたのは、制度の整備を超えた現実的な経済感覚だった。すなわち、炭素排出に対する責任がますます重くなることは避けられない。であれば、今のうちに技術を確保し、ネットワークを作り、ルールの設計に影響力を持っておくべきだという判断が働いていたのである。地球温暖化対策は、もはや「環境のため」だけではなく、「事業戦略」の中核に入り込んでいた。

2001年の日本において、排出権取引はまだ影のような存在だった。しかしその影は確実に実体を帯びつつあり、多国籍企業と政策決定者の間で静かに火花を散らす駆け引きが始まっていた。空気の値段が付けられ、炭素が通貨のように取引される時代。その序章は、官僚や学者ではなく、先を読む商社マンたちの手によって静かに書き始められていたのである。

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