風を駆けて、電気へ――F1設計者・小野昌朗の回想と挑戦(1994年)
1994年秋、環境ビジネスが新たな胎動を始める中、ひとりの男が自らの過去と未来をつなぐ物語を語っている。彼の名は小野昌朗。東京アールアンドデー社長。彼は1970年代から1980年代にかけて、F1、ル・マン、F3などのマシン設計に身を投じた日本モータースポーツ黎明期のエンジニアである。
語られるエピソードは熱い。1973年、小野は自ら設計した車でル・マン24時間耐久レースに参戦し、1974〜75年にはF1にプライベートチームとして挑んだ。当時、日本に本格的なF1チームは存在せず、ほとんどが英国発の個人チーム。フォードのDFVエンジンを搭載した「自作マシン」で、己の技術と資金、そして執念だけを武器に欧州の舞台へ挑んでいたという。
この時代背景は重要である。1970年代は日本のモータースポーツがようやく国際レベルの門を叩いた時期であり、しかし国内には十分な資金も、設備も、認知もない。日本企業はF1を「趣味の延長」と見なしており、小野も「仕事は二の次、ほとんど個人参加に近かった」と振り返る。チームを支える技術や人材の"組織的な蓄積"がなく、レースで得た経験を即座に研究開発へと反映させるシステムもなかった。
それでも、彼は諦めなかった。1979〜1980年にも再びル・マンに挑み、1981年にはF3やフォーミュラーカーの開発にも携わった。やがて彼は"限界"を感じる。「日本ではレースそのものが認知されておらず、科学的な技術開発ができない。海外との決定的な差は、組織力だった」。そうして彼は「自分の技術を社会に還元したい」と考え、1981年、東京アールアンドデーを設立する。
この会社は単なる設計受託企業ではなかった。小野の目指したのは、「レースで培った知見を活かして環境技術へとつなげる」という野心的なビジョンだった。1984年、国立環境庁研究所からの誘いを受け、電気自動車の開発に踏み出す。ちょうどその頃、世界的にも石油危機後の代替エネルギー模索が続いており、米カリフォルニア州やドイツでも"ZEV(ゼロ・エミッション・ヴィークル)"構想が具体化しつつあった。
彼の手がけた電気スクーターES600は1994年、通産省選定のグッドデザイン商品に選ばれるなど、高い評価を得た。レースで磨いた「軽量化」や「空力設計」の技術は、電動車開発にそのまま応用され、構造の簡素さ、排ガスゼロという環境特性と見事に融合した。価格や航続距離といった課題は残されていたが、すでに彼のビジョンは「夢」ではなく、社会実装のステージに入っていた。
1970年代の"熱狂"と、1990年代の"冷静な技術革新"。小野昌朗の軌跡は、そのふたつを架橋する数少ない日本人の証言であり、モータースポーツと環境技術の意外な接点を私たちに教えてくれる。彼の語り口には、時代の風を切った者にしか出せない確信と哀愁が宿っていた。
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