関東の血風――山極抗争と二人の首領の対峙(1993年)
平成五年、関東一円は「山極抗争」と呼ばれる暴力の連鎖に飲み込まれていった。五代目山口組と極東会、二つの巨大組織が東京を主戦場に死闘を繰り広げたのである。バブル崩壊後の混乱の中、関西を拠点とする山口組は関東進出を加速し、既存勢力である極東会の縄張りに容赦なく侵食していった。極東会もまた、東京都内の繁華街やシノギの防衛に必死だったが、双方の衝突はついに連続する発砲事件へと発展し、都内、埼玉、千葉で二十件を超える銃撃戦が発生した。新宿歌舞伎町では早朝に極東会系組員が射殺され、池袋では山口組系の車両に銃弾が撃ち込まれた。さらに千葉県市川市でも極東会幹部宅が自動小銃で襲撃されるなど、街は一触即発の空気に包まれていた。
抗争の最中、極東会は新宿歌舞伎町を「死守すべき最後の砦」と位置付けていた。松山眞一は、直系組員だけでなく関係する下部組織も動員し、歌舞伎町内の拠点に組員を泊まり込ませていたと言われる。特に有名なのが、当時の極東会幹部が歌舞伎町のクラブビル屋上に見張りを配置し、山口組系の車両や不審者を監視していたエピソードである。夜になると屋上には双眼鏡を持った組員が立ち、警察もまたそれを知りつつ警戒を強めていたという。極東会会長、松山は防衛戦の指揮を執りつつも、抗争長期化による組織疲弊を懸念し、やがて住吉会や稲川会を通じて仲裁を模索するようになった。秋には部分的停戦が成立し、年末にかけて抗争は次第に沈静化していった。
一方、五代目山口組組長・渡辺芳則は、関東制覇を悲願としていた。1936年生まれの彼は、組織の頂点に立った後も冷徹に戦略を練り、弘道会や宅見組といった武闘派を関東へ送り込み、極東会系組員への攻撃を繰り返した。警視庁幹部による水面下の「手打ち」の申し入れも当初は拒否し、「こちらが譲歩する形で終わらせる気はない」と強硬な姿勢を崩さなかった。しかし警察の摘発が強化されると、渡辺は情勢を見極め、停戦交渉を受け入れて組織温存を選択した。
抗争後、松山は1997年に会長を退き、極東会は勢力を縮小していった。渡辺は関東の地盤を確立し、2005年まで山口組の安定を維持することになる。この抗争は、関東の暴力団地図を塗り替えただけでなく、警察の暴力団対策を一段と苛烈なものに変える契機となった。街の空には、あの時確かに「血の匂い」を運ぶ風が吹いていた。
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