Tuesday, July 1, 2025

「讐火、讃岐に燃ゆ――高松血風記・昭和三十七年」

「讐火、讃岐に燃ゆ――高松血風記・昭和三十七年」

1962年(昭和37年)、香川県高松市を中心に起きた「高松戦争」は、山口組と親和会という二つの暴力団による激しい抗争事件である。表向きには「暴力団抗争」とされているが、実際には高松という地方都市の利権構造を巡る血なまぐさい縄張り争いであり、市民生活にも大きな影響を与えた。

この抗争の発端は、戦後から香川県を地盤に勢力を張っていた親和会と、関西の巨大勢力である山口組との間に生じた縄張り・利権の衝突にある。山口組は三代目・田岡一雄のもとで勢力拡大を続けており、四国への進出を試みる中で、すでに地元の港湾、建設、賭博などの利権に食い込んでいた親和会と鋭く対立した。外来勢力と地元団体の利害が正面からぶつかり、緊張は一気に高まった。

親和会は、戦後の混乱期に香川県内で形成された独立系の任侠団体であり、他の大手暴力団とは一線を画す地元密着型の存在であった。会長・金原弘次のもとで、香川県内の建設業、労働者供給、賭博場の運営などを通じて、地域に根を張った影響力を持っていた。そのため、外来勢力である山口組による進出には強く反発し、対立は不可避のものとなった。

抗争は1962年に表面化し、親和会幹部が山口組系の人間によって襲撃される事件が発生したのを皮切りに、報復の連鎖が始まった。銃撃事件、手榴弾による襲撃、刺傷事件などが短期間に立て続けに発生し、高松の市街地は一種の戦場と化した。市民は巻き添えを恐れて外出を控えるようになり、地域経済にも悪影響が及んだ。

事件の重大性から、香川県警と四国管区警察局は広域捜査体制を敷き、暴力団の検挙に全力を挙げる異例の対応を取った。新聞各紙もこの騒動を「高松戦争」として報道し、全国的な注目を集める事件となった。戦後最大規模とも言われたこの抗争は、単なる暴力団同士の抗争という範疇を超え、暴力団が一般社会に直接的な脅威を与える存在であることを強く印象づけた。

抗争の結果として、山口組は四国における影響力を強めることに成功し、親和会は以後衰退の道をたどることとなる。一方でこの事件は、警察庁が暴力団対策の必要性を強く認識する契機ともなり、後年の暴力団対策法(1991年)の前史としても重要視されている。

高松戦争は、高度経済成長期の陰で、地方都市における利権と暴力、外来勢力と地元勢力の衝突という構図を浮き彫りにした事件であった。その記憶は今も地元では語り継がれ、「昭和の高松を震撼させた抗争」として歴史に刻まれている。

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