江藤淳という刃――俳句と和歌が交錯した季節(1970年代から1990年代)
「君の批評文は和歌で書かれている」「批評というのは俳句でなければいけないんだ」。この二つの言葉は、単なる文体指摘ではなく、戦後日本の批評意識そのものが凝縮された一瞬だった。江藤淳(一九三二から一九九九)は、漱石論で若くして頭角を現し、戦後国家の構造、知識人の姿勢、文学の倫理を問い続けた批評家として知られる。その文章は澄みきった緊張を持ち、余計な情緒を削ぎ落とし、対象の核心へ向かう刃のような明晰さが特徴だった。俳句になぞらえるという言い回しは、短い言葉の中で世界を切り取り、濁りを許さないという批評観の象徴だった。
この言葉を受け取った側が身を置いていたのは、七〇年代から八〇年代にかけて、社会も文化も大きく揺れていた時期である。高度成長は終わり、都市にはアングラ文化や若者の猥雑なエネルギーが漂い、やがて消費社会が成熟していく。文学の中でも、政治や大きな物語を背負う重厚な批評から、個人の気分や感覚を大切にする柔らかな語りへと重心が移りつつあった。中上健次の濃密な土地性と、村上春樹の軽やかな文体が同じ地平で読まれるようになるのも、この時代の特徴である。批評もまた、論理の強さだけではなく、書き手の体温や揺れを含む文体が受け入れられ始め、文章の流れそのものが価値を持つようになっていた。
江藤淳が「和歌」と名指ししたのは、その流れに対する鋭い批評だった。和歌は抒情と余韻を前提とする形式であり、批評が持つべき緊張とは反対の方向にある。だからこそ江藤は続けて「批評は俳句でなくてはいけない」と言い切った。俳句は凝縮、刃物、観察の瞬発力を象徴し、対象をためらいなく切り出すためには情に流れてはならず、言葉そのものを研ぎ澄ませる必要があるという考え方がそこにある。
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