門をくぐる遊び 宝暦以降-江戸後期 揚屋から店舗へ移った吉原のかたち
宝暦期以降の吉原は、制度そのものを組み替えることで生き延びた遊興の空間だった。かつての吉原は、揚屋に太夫を招く形式を中心とする、きわめて閉じた上層階級の社交場であり、遊びは一夜限りの儀礼として完結していた。そこでは金額も所作も、見せること自体が価値であり、豪奢であるほど意味を持った。しかし元禄期の繁栄が終わり、幕府財政の逼迫や倹約令が続くなかで、こうした様式は社会的にも経済的にも持続できなくなっていく。吉原は、遊び方そのものを変えなければ存続できない局面に立たされていた。
そこで進んだのが、揚屋制度の解体と、妓楼で直接遊ぶ店舗型への転換である。客は揚屋に招かれる存在ではなく、自ら門をくぐり、妓楼を選び、座敷に上がるようになる。この変化は単なる簡略化ではない。遊びの主体が、大名や豪商から、町人や中級武士へと移ったことを意味していた。宝暦期以降の江戸では、可処分所得は限られていたが、娯楽への欲望は衰えていない。高額な一夜より、無理のない範囲で何度も通える遊びが求められるようになったのである。
この新しい遊び方を現実のものにしたのが、引手茶屋の存在だった。引手茶屋は単なる案内役ではなく、客を選別し、適切な妓楼や遊女を割り当て、費用をいったん立て替え、後日まとめて回収する役割を担った。これにより、客は手元の現金が少なくても遊ぶことができ、妓楼は未収金の不安から解放される。金と信用の流れを一手に引き受けることで、引手茶屋は吉原全体の交通整理役となった。その機能は、現代の風俗案内所や与信管理を兼ねた仲介業に近い性格を持っていた。
この仕組みが整うと、吉原は急速に大衆化する。初めて訪れる者でも、引手茶屋を通せば大きな失敗を避けられるようになり、料金体系も時間や等級ごとに細かく分かれていった。遊女は象徴的存在である太夫ではなく、指名を受け、回転し、稼ぐ存在として位置づけられる。吉原は、儀礼の舞台から、都市の中で日常的に回り続けるサービス業へと姿を変えたのである。
この転換は、吉原の格が下がったことを意味しない。それは、江戸社会そのものが豪遊を誇示する時代から、帳尻を合わせながら楽しむ時代へ移ったことの反映だった。揚屋制度の消滅と店舗型への移行は、庶民文化が主役となった江戸後期の成熟を象徴する変化であり、引手茶屋はその境目に立つ決定的な存在だった。
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