見せる夢の終焉 元禄-宝暦期 太夫と揚屋が消した吉原の豪遊文化
宝暦以前の吉原は、現在イメージされる気軽な遊興の場ではなく、きわめて限られた階層だけが立ち入ることのできる、儀礼的で政治性を帯びた社交空間だった。その中心にいたのが、最上位の遊女である太夫である。太夫は妓楼に常駐する存在ではなく、客が揚屋に招くことで初めて成立する存在であり、その一夜は色事というより、財力と権威を示す舞台であった。
太夫の道中は、それ自体が壮麗な見世物だった。新造や禿を引き連れ、豪奢な衣装をまとい、時間をかけて練り歩く姿は、客の経済力と社会的地位を可視化する装置でもあった。揚屋での宴には、酒肴、芸能、調度、贈答が重なり、費用は莫大に膨れ上がる。この遊びが成立したのは、元禄期という経済的高揚の時代に、大名や豪商が潤沢な資金を背景に競い合うことができたからである。
しかし、元禄の繁栄は長くは続かなかった。幕府財政の逼迫、相次ぐ倹約令、自然災害、貨幣改鋳による混乱が重なり、十八世紀に入ると社会全体は引き締めへと向かう。大名は借財に苦しみ、豪商も派手な消費を公に誇ることが難しくなった。こうした状況の中で、太夫を揚屋に呼ぶ豪遊は、費用面だけでなく政治的にも目立ちすぎる遊びとなっていった。
その結果、揚屋制度は急速に衰退する。太夫という存在は、維持するだけで多大なコストを要し、客層の縮小とともに現実性を失っていった。代わって吉原の中心に現れたのが、妓楼で直接遊ぶ形式であり、遊女も太夫ではなく花魁や中位以下の遊女が主流となる。遊びは儀礼から実務へ、見せる豪遊から、時間と金を管理する娯楽へと変質していった。
この変化は単なる衰退ではない。吉原は豪遊文化を失う代わりに、町人や中級武士を取り込み、生き延びる道を選んだ。遊びの単価は下がり、滞在時間や回転率が重視され、引手茶屋や廻し方といった裏方の役割が前面に出る。太夫の時代が一夜のための壮大な舞台であったとすれば、宝暦以降の吉原は、日常的に回り続ける都市型娯楽へと姿を変えたのである。
太夫と揚屋の消滅は、夢が失われた瞬間として語られることが多い。しかしそれは、江戸社会全体が経験した価値観の転換を映している。誇示のための豪奢から、帳尻を合わせながら続ける現実へ。その境目に、太夫の時代は静かに幕を下ろした。
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