「粋の仲介人、吉原の影──引手茶屋の栄華と哀愁(江戸時代)」
江戸時代の遊郭は、誰でもふらりと訪れて遊女を指名できるような甘い世界ではなかった。その格式と伝統を支えたのが、引手茶屋である。これは、一見さんお断りの高級遊郭、特に揚屋と呼ばれる場で客と遊女の仲を取り持つ、いわば「遊郭の門番」だった。現代で言えば、予約の取れない高級料亭の裏口を握る名物仲居、といったところだろうか。
引手茶屋の役割は実に多彩だった。客が遊郭に入るためには、まずこの茶屋を通さなければならない。遊女を紹介するのはもちろんのこと、客の身分や支払い能力を見極め、適切な遊び方を指南する。遊興費はツケ払いが基本だったため、引手茶屋が信用保証をしなければ遊ぶことすらできなかった。つまり、遊びたければまず「お得意様」になる必要があり、そのためには引手茶屋に顔を売らなければならなかったのだ。まさに「粋」の世界の関門だった。
吉原には、名の知れた引手茶屋もあった。例えば大黒屋は大名や豪商の贔屓が多く、伊勢屋も高級遊女を扱う一流どころだった。彼らは単なる仲介業者ではなく、吉原における遊興の「総合プロデューサー」のような存在で、客と遊女の相性まで見極める手腕を持っていた。この門をくぐれぬ者に、吉原の華やかな世界は許されなかったのである。
この引手茶屋を通じて遊郭を訪れた有名人も少なくない。俳諧の巨匠・松尾芭蕉は、風流を求めて吉原にも足を運んでいたとされるし、井原西鶴は遊郭の実態を知るがゆえに、『好色一代男』などで引手茶屋の様子を生々しく描写した。そして幕末の文人成島柳北は、吉原文化を克明に記録し、その栄華と裏側を後世に伝えた。
江戸の華やぎの裏で、引手茶屋は影のように生きた。客を遊女へと誘い、金と信用を操りながら、吉原という別世界を支え続けた。しかし、幕末から明治へと時代が移るにつれ、その役割も薄れ、ついには歴史の舞台から姿を消していく。遊郭の夢幻のひとときは、彼らの手によって演出されていたのだ。もし江戸の夜にタイムスリップできるなら、まずは引手茶屋に顔を売るところから始めなければならないだろう。
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