Wednesday, February 26, 2025

# 「大阪抗争録 ー 名友会��山口組、血戦の夏(1960年7月〜8���)」

# 「大阪抗争録 ー 名友会と山口組、血戦の夏(1960年7月〜8月)」

## 昭和35年(1960年)の名友会と山口組の抗争

昭和35年(1960年)に発生した名友会と山口組の抗争は、「明友会事件」として知られ、大阪における山口組の勢力拡大の重要な契機となった。

### 抗争の発端
1960年7月、大阪ミナミで山口組と名友会の組員同士が衝突。その後、名友会側が猟銃を持ち、神戸の山口組事務所前で示威行動を行ったことで両者の緊張が高まった。

### 抗争の経過
8月9日、山口組の田岡一雄組長がキャバレー「キング」の開店祝いの後、サパークラブ「青い城」を訪れた。同じ店で名友会幹部の宋福泰・韓博英の保釈祝いが行われており、両者が遭遇。田端義夫への歌唱依頼を山口組が拒否したことで口論に発展し、名友会側が「いつでも来い。相手になってやる」と言い残し退店した。これを受け、田岡組長は全面戦争を決意し、若頭の地道行雄を総指揮官に任命した。

山口組は大阪市東淀川区十三西之町の旅館を作戦本部とし、各団体に動員令を発令。一方、名友会の姜昌興会長は仲裁を試みたが、山口組は拒否した。

8月12日、山口組が大阪市西成区のアパート「清美荘」にいた名友会幹部・李猛を襲撃し重傷を負わせた。8月19日、名友会も山口組組員を拉致しリンチを加えるなど報復が続いた。

### 抗争の終結
8月23日、箕面市の「箕面観光ホテル」で手打ち式が行われた。山口組側からは中川猪三郎、田中禄春、柳川次郎が、名友会側からは姜昌興、許万根が出席。名友会幹部15人が指を詰めて持参するなど、事実上の名友会の全面降伏となった。

この抗争によって、山口組は大阪での影響力を強め、全国的な勢力拡大の足がかりとした。

## 関連情報
明友会事件に関する詳細な記録として、いくつかの書籍がある。原松太郎著『大阪ヤクザ秘史 私が見た「明友会事件」から「山一抗争」まで』は、昭和の大阪ヤクザの抗争を体験者の視点から描いており、事件の詳細を知るには貴重な資料となる。黄民基著『完全版 猪飼野少年愚連隊 奴らが哭くまえに』は、昭和30年代の大阪・猪飼野のヤクザ社会を背景にしており、名友会やその周辺の勢力についても描かれている。

また、ウェブ上の資料として、Wikipediaの「明友会事件」には事件の背景や経過が整理されている。警察白書(平成元年版)には、暴力団の歴史や当時の勢力関係が記されており、事件をより広い視点から見ることができる。

映画としては、中島貞夫監督の『実録外伝 大阪電撃作戦』がこの事件を題材にしており、当時の抗争の雰囲気を映像で知る手がかりとなる。これらの情報を活用することで、明友会事件の背景やその後の影響についてさらに深く理解することができるだろう。

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