Friday, February 28, 2025

昭和文壇異聞録──1970年代後半、純文学とSFの交差点

昭和文壇異聞録──1970年代後半、純文学とSFの交差点

1970年代後半の日本文学界には、「純文学」と「大衆文学・SF」という明確な対立が存在していた。この対立の中で、田辺遊子と富士正晴は純文学の立場に立ち、人間の本質や社会問題を描くことを重視していた。一方、小松左京と筒井康隆は、SFや大衆文学を通じて未来や社会の変化を描き、新たな文学の可能性を模索していた。この二つの立場は、文学に対する考え方の違いだけでなく、時代の変化と読者の嗜好の変遷にも深く関わっていた。

田辺遊子は、社会問題や女性問題に関心を持つ評論家・作家として知られ、文学には社会的責任があると考えていた。特に、政治や社会の矛盾を批判的に捉え、それを作品に反映させることが重要だと考えていた可能性が高い。富士正晴もまた、庶民の生活や人間の心理を深く描くことを重視し、純文学こそが人間の本質を表現するものだと考えていた。彼らにとって、文学とは社会と個人の内面を照らし出す鏡であり、娯楽性の強いSFや大衆文学は、そうした役割を果たすものではないと見なされていたのだろう。

対照的に、小松左京は科学技術と社会の未来をテーマにしたSF作品を数多く発表し、特に1973年の『日本沈没』は大きな社会現象となった。彼は、SFとは単なる娯楽ではなく、「哲学」であり、「社会の予測装置」であると考えていた。技術の進歩と社会の変化を描くことで、人々に未来を考えさせることがSFの役割だと信じていたのである。一方、筒井康隆は、ユーモアと実験的手法を駆使しながら、文学の新たな可能性を探求していた。彼は純文学の形式にとらわれることなく、SFやナンセンス文学の要素を取り入れ、読者に強いインパクトを与える作品を生み出した。

このような文学観の違いは、1970年代後半の社会情勢とも密接に関係していた。日本は高度経済成長が終焉を迎え、1973年のオイルショックによって経済的な不安が広がった。これにより、社会全体に停滞感が漂い、文学に対しても異なるアプローチが生まれた。純文学の作家たちは、この閉塞感や個人の内面的な苦悩を描くことに重きを置き、一方でSF作家たちは、科学技術や未来の可能性を描くことで、新たな視点を提供しようとしたのである。

こうした背景の中で、「サンデー毎日」に掲載された田辺遊子と富士正晴の対談では、小松左京に対する批判的な発言が見られた。特に、「小松やなんかがそばにおって、胃潰瘍になったんや」という言葉には、彼の作品や議論のスタイルに対する不満が込められていたのではないかと考えられる。小松左京は議論好きで、未来について語ることを好んだが、それが純文学の作家たちにとっては「押しつけがましい」「過剰なもの」と映ったのかもしれない。また、「田辺遊子の弔辞を筒井康隆が読む」という話を「アホらしい」としたのも、純文学とSFの対立を反映していると言える。筒井康隆のナンセンスな作風やユーモアを、田辺遊子や富士正晴は「文学として軽薄である」と捉え、評価しなかったのではないだろうか。

この対談の背景には、当時の文学界における「純文学 vs SF・大衆文学」の対立がある。純文学側の作家たちは、SFやエンターテインメントの隆盛により、自らの文学の影響力が低下することに危機感を抱いていた。一方で、SF作家たちは、純文学が内向的で閉鎖的になりすぎていると考え、新たな表現の可能性を模索していた。この論争は、単なる個々の作家の意見の対立ではなく、時代の変化を象徴するものでもあった。

結果として、1970年代後半から1980年代にかけて、SFや大衆文学はますます支持を集め、純文学は次第に狭い読者層に向けたものへと変化していった。この対談は、そうした文学界の転換期における象徴的な出来事であり、時代の変化を反映した重要な発言の一つだったと言える。

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