炭鉱に散る修羅の影 ― 昭和二十年代後半から四十年代前半にかけての双葉会と小野組の抗争
筑豊事件は、戦後の筑豊地方で起こった暴力団抗争の一つであり、特に双葉会(山口組系)と小野組(独立系)の対立が激しく展開された。筑豊は日本最大の炭鉱地帯として発展したが、劣悪な労働環境のもとで労働争議が相次ぎ、暴力団が炭鉱利権を巡る争いに介入するようになった。双葉会は政治家や企業と結びつきながら影響力を強めたのに対し、小野組は土建業を基盤に独自の勢力を築いた。組長の小野拓は「俺は筑豊を捨てない」と抗争を続け、双葉会との激しい銃撃戦や爆破事件が繰り返された。
しかし、一九六〇年代後半になると、炭鉱の衰退と警察の「頂上作戦」により暴力団の利権は縮小し、抗争は沈静化した。この事件を通じ、山口組が全国的に影響力を拡大する契機となり、日本の産業利権と暴力団の関係が浮き彫りになった。筑豊事件は、戦後の日本社会における暴力団の役割を考察する上で重要な出来事である。
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