電波に乗る変革の声——1970年代後半のラジオとパーソナリティたち
1970年代後半、日本のメディア環境は大きく変化していた。若者のメディア志向はテレビからFMラジオへと移行し、FMラジオは音質の良さや音楽番組の充実によって急速に人気を集めていた。当時のFMラジオは、主に洋楽を中心とした音楽番組が多く、音楽好きの若者たちにとって欠かせない存在となっていた。その一方で、中波(AM)ラジオは、これまでのニュースやトーク番組主体の構成が「時代遅れ」と見なされ、特に若者からの支持を失い始めていた。文化放送の編成部長である大沢秀人氏も、「番組内容がマンネリ化している」と認めるほど、AMラジオの未来には不安が漂っていた。
この状況を打破するために、文化放送は「音」と「イメージ」を駆使した新しいラジオの形を打ち出した。リスナーが音だけで想像を膨らませることができるような番組作りを重視し、「単なる音楽放送ではなく、没入感のある演出」を取り入れることを目指していた。その試みの一つとして、1977年10月3日から半年間にわたる特別番組が企画され、ラジオの新たな可能性を模索する動きがあった。FMラジオとの差別化を図ることで、AMラジオの再生を目指す戦略が進められていたが、それでもFMラジオの勢いには対抗しきれず、AMラジオがどう生き残るかは未だ模索中であった。
この時代のラジオ業界では、数多くの有名パーソナリティが活躍し、ラジオ文化の変革を牽引した。TBSラジオで「永六輔の土曜ワイドラジオTokyo」を担当していた永六輔は、市井の話題を鋭く捉えたトークで人気を集め、AMラジオの代表的な存在だった。同じくTBSラジオの大橋巨泉は、「巨泉のこんなモノいらない!?」などの番組で辛口の社会批評を交えたトークを展開し、さらに「日立ミュージック・イン・ハイフォニック」では、FMラジオの流れを取り入れた洋楽中心の構成を導入するなど、新しい試みを試していた。
一方、ニッポン放送では「オールナイトニッポン」の初代パーソナリティの一人である糸居五郎が、「DJの神様」として知られ、洋楽紹介の草分け的な存在となっていた。また、「高嶋ひでたけのオールナイトニッポン」を担当していた高嶋ひでたけは、その軽妙なトークスタイルで「深夜ラジオの帝王」とも称され、リスナーに愛された。TBSラジオでは、小島一慶が「こじま一慶 夜はともだち」で深夜放送を盛り上げ、CBCラジオではつボイノリオが「つボイノリオの聞けば聞くほど」を担当し、特に東海地方で圧倒的な人気を誇っていた。文化放送では1977年に「吉田照美のてるてるワイド」がスタートし、その後の1980年代ラジオブームを支える人物の一人となった。
1970年代後半のラジオ業界を振り返ると、AMラジオは永六輔や大橋巨泉のように社会派トークを中心とした番組を維持しつつ、FMラジオのスタイルを取り入れる試みを続けていた。「オールナイトニッポン」などの深夜放送は若者から強い支持を受けていたが、FMラジオの人気は衰えず、高音質を活かした音楽番組の充実によって、その勢力を拡大し続けていた。
このように、1970年代後半は、FMとAMの競争が激化し、AMラジオが生き残りをかけて変革を模索していた時期であった。文化放送をはじめとするAMラジオ局は、FMの勢いに対抗するためにストーリー性のある番組作りを強化し、新たな試みに挑戦していたが、最終的にFMラジオの流れを食い止めることはできなかった。それでも、当時のラジオパーソナリティたちが築いた文化は、その後の日本のメディア史に大きな影響を与え続けている。
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