Thursday, May 1, 2025

芸と栄光のあわいに――春風亭柳橋と戦後落語界の浮沈(1945年~1960年代)

芸と栄光のあわいに――春風亭柳橋と戦後落語界の浮沈(1945年~1960年代)

春風亭柳橋は、明治42年に子役として寄席に立ち、大正・昭和・戦後にわたり落語界にその名を刻んだ名跡の噺家である。若くして小柳枝の名で活躍し、大磯の吉田茂邸や秩父宮邸に出入りするなど、芸人としては異例の人脈を築いた。正月には三軒の寄席で同時にトリを務める「三軒ばね」という伝説を残し、他の噺家たちの嫉妬を集めたが、睦会の会長・柳亭左楽が彼を擁護し、その立場は揺るがなかった。

彼の芸風は、古典落語にアレンジを加える「改作落語」を得意とし、代表作には『支那そば屋』『夢金』『代脈』などがある。中でも『支那そば屋』は彼独自の味付けで人気を博し、寄席はもとよりテレビ・ラジオでも多くの笑いを誘った。『宿屋の仇討』『火焔太鼓』などの滑稽噺でも観客の心をつかみ、芸の純粋性よりも人々との距離の近さを大切にする姿勢が際立っていた。

その芸と対比されるように、正統派の古典芸を貫いた桂文楽、自由奔放な語りで人気を博した古今亭志ん生、そして温かみのある語り口で名人と呼ばれた柳家小さんらが、ライバルとして並び立つ。特に文楽とは、芸の方向性において対照的であり、戦後の落語界における価値観の分岐を象徴していた。

戦後、柳橋は柳家金語楼と共に「日本芸術協会」を創設し、落語界の再編に大きく関わる。この動きは、旧来の「落語協会」との間に分裂をもたらし、睦会・演芸会社・臨会といった複雑な組織変遷を経て、最終的に「芸術協会」と「落語協会」という二大派閥が形成されることとなった。

テレビの登場と民放ラジオ局の興隆により、放送メディアは落語家の存在価値を変えていく。TBS(当時ラジオ東京)は文楽・円生・小さんらを専属に迎え、志ん生はニッポン放送と契約。一方、専属を持たないNHKは、柳橋のようなフリーの人気者に頼らざるを得ず、彼の露出はさらに増大する。放送局の台頭は、芸の力だけではなく、放送適性という新たな価値尺度を噺家に突きつける時代の到来であった。

だが、その晩年には翳りも見える。芸術協会の会長職には居座り続けたものの、実務は柳亭痴楽や三遊亭円楽、春風亭柳昇ら新進の理事たちが担い、彼の影響力は徐々に薄れていく。芸術性を深めて名人と呼ばれる道ではなく、大衆と笑い合う舞台を選んだ柳橋の生き様は、芸能界における「光と影」のはざまを歩む者の典型であった。

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