愛と独裁のフィルム――銀幕を支配した監督たちの欲望と創造(1960〜70年代)
1960年代から70年代にかけて、映画は「個人の表現」の時代へと転じた。旧来のスタジオシステムが崩れ、「作家主義(オーター理論)」が台頭したこの時代、監督自身の美学や人生観が作品に色濃く投影された。そこには、女優との関係が作品誕生の引き金となる、創造と情念の交錯があった。
たとえばイタリアの巨匠フェデリコ・フェリーニは、妻ジュリエッタ・マシーナを「私の映画の魂だ」と語る。彼女が出演した『道』や『魂のジュリエッタ』は、彼女自身がインスピレーションの源泉であり、観念を具体に変える装置だった。
また、ミケランジェロ・アントニオーニはモニカ・ヴィッティに耽溺し、彼女の冷ややかな佇まいを通じて、都会の孤独と疎外を描いた。『太陽はひとりぼっち』、『赤い砂漠』。それは愛の映画であると同時に、沈黙と断絶の物語でもあった。
こうした関係性は、創造的な共犯であると同時に、明白な権力構造を孕んでいた。「監督とは、どうして美しい女優の中から一人を選び、命令できるのか?」という問いは、映画界における性と権力の非対称性をえぐり出している。まだフェミニズムの波が押し寄せる前夜。男たちの情熱は、女性の身体をスクリーンに投影し、消費した。
チャールズ・チャップリンもまた、天才にして独裁者だった。彼は『殺人狂時代』で冷笑的な社会批判を展開するが、私生活では少女たちに惹かれ、繰り返しスキャンダルにまみれた。ユーモアの裏には支配欲があり、芸術の裏には性があった。
映画は恋愛から生まれた。だが、それは必ずしも美しい話ではない。カメラの向こうにいたのは、ただの被写体ではなかった。愛されることで、演技を強いられ、役にされ、記号に変わっていく女優たちの運命。それを「創造」と呼ぶことの傲慢さ。映画とは、欲望を映す鏡であると同時に、それを隠蔽する装置でもあった。
だからこそ、この時代の映画は美しい。痛々しく、矛盾に満ち、それでも強烈な光を放っている。愛と独裁、その狭間に揺れる銀幕は、今日もなお私たちを魅了してやまない。
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