Wednesday, May 14, 2025

「黒い輪の逆襲――廃タイヤが資源へと転じた時代の証言」―2001年6月

「黒い輪の逆襲――廃タイヤが資源へと転じた時代の証言」―2001年6月

2001年当時、「廃タイヤが燃料から価値ある資源へと変わった」という出来事は、単なる廃棄物処理の話ではなく、日本社会が循環型社会に向かう転換点を象徴するエピソードであった。この背景には、戦後の高度経済成長とともに爆発的に増えた自動車の保有台数がある。1990年代には六千万台を超え、それに伴って毎年およそ百万人分の廃タイヤが排出されていた。これまでは廃タイヤの多くが焼却や埋立処分されており、セメント工場などに持ち込んでは、一本あたり四十〜六十円の費用を支払って処理してもらうのが一般的だった。廃タイヤは「お金を払って捨てるもの」という位置づけだったのである。

しかし、1999年に新日本製鐵の広畑製鉄所(兵庫県姫路市)が新しい試みを始めた。廃タイヤを製鉄の工程で直接利用するリサイクル技術の実証実験を行い、2000年には本格的な導入が実現した。この製鉄所では、カットタイヤを高炉へと投入するための設備を新設し、タイヤに含まれる炭素成分(カーボンブラック)を還元剤として利用する一方、鋼鉄として含まれるスチールワイヤーは溶融原料に、ゴム部分は熱分解してガス燃料として再利用する仕組みが確立された。このように、廃タイヤは製鉄のためのエネルギー・原料として重宝され、「有料廃棄物」から「買取資源」へと評価が一変したのである。

この技術的転換の裏には、2000年に施行された「循環型社会形成推進基本法」の影響もある。日本政府はこの時期から「廃棄物をできるだけ資源として再利用する」ことを国策として掲げ、民間企業にも対応を促していた。さらに、都市近郊の埋立地が逼迫し処理費用が高騰していたこと、そして鉄鋼業界がコスト削減の一環として新たな燃料源を模索していたことが、廃タイヤのリサイクル促進を後押しした。

とはいえ、全てがうまくいっていたわけではない。廃タイヤの再利用には大きく分けて、素材として再加工する「マテリアルリサイクル」と、燃やしてエネルギーを回収する「サーマルリサイクル」があるが、当時の比率はマテリアルが約三六パーセント、サーマルが約五一パーセント、残りは中古タイヤの輸出やその他に分類されていた。問題は、マテリアルリサイクルされた製品が市場で新品に太刀打ちできないことだった。再生ゴムや更生タイヤ、道路舗装剤、マットなどは価格や品質、見た目の点で新製品に及ばず、市場での競争力が乏しかった。また、日本工業規格(JIS)などの統一的な品質基準が整備されておらず、再生品の信用も確保しきれていなかった。

このような中で、経済的合理性の観点からも、廃タイヤを「燃やす」方に偏重する傾向が見られるようになった。しかし、サーマルリサイクルはリサイクルの最終手段であり、資源の有限性を考えれば素材としての再利用を優先すべきであるという認識も根強かった。このバランスをいかにとるかが、当時のリサイクル政策と企業の経営判断に大きく影響を与えていた。

このように、2001年における廃タイヤリサイクルの劇的な変化は、技術革新と制度設計、さらには市場の構造が複雑に絡み合う中で進行していた。廃棄物が「捨てるもの」から「売れるもの」へと転じるプロセスには、時代の価値観の転換が色濃く反映されていた。廃タイヤという一見地味な素材の裏には、資源循環と経済、環境政策が交差するダイナミックな変革の物語が存在していたのである。

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