Saturday, October 11, 2025

三菱電機と荏原製作所―環境の声を聴く人々 一九九六年三月

三菱電機と荏原製作所―環境の声を聴く人々 一九九六年三月

一九九〇年代半ば、日本の産業社会には静かな転換の兆しが生まれていた。バブル崩壊の余韻が残る中で、経済成長の輝きは鈍り、かわって「環境」という新しい理念が、企業の中枢へと忍び込んでいった。かつての公害防止は、あくまで汚染の後始末にすぎなかったが、一九九二年のリオ地球サミットを境に、環境問題は経営理念そのものへと変貌を遂げていく。通産省や経団連が相次いで「環境管理」や「環境教育」を打ち出し、技術と利潤に支えられた企業構造に、倫理と文化を吹き込もうとした。そうした時代の息吹を、最も明瞭に体現したのが、三菱電機と荏原製作所であった。

三菱電機は、一九九一年に環境保護推進部を設立し、竹内秀年を中心に社内教育の改革を始めた。新人から幹部までが同じ理念を学ぶ仕組みをつくり、全国の事業所を衛星放送でつなぎ、環境講座を開いた。製品アセスメントや省エネ技術といった講義のほか、環境意識そのものを育てる場が設けられた。竹内は語る。「悲観的すぎても、無関心でもいけない。正しい危機意識こそが問題解決の原動力です。」それは、単なる環境対策ではなく、人間の心の改革を求める言葉であった。三菱電機は技術の優等生として知られていたが、このころから「知的・文化的環境経営」へと舵を切り始めた。世界市場での信頼を意識し、国際規格ISO14000シリーズの導入にも早くから取り組み、環境を企業の未来そのものと見なしていた。

一方、荏原製作所では、長年の機械メーカーとしての伝統の上に、別の形の変化が芽吹いていた。排水処理や焼却炉など、公害時代を支えた技術の裏で、九〇年代に入ると「環境エンジニアリング企業」としての自覚が芽生える。環境統括室長の埋田基一は、「環境意識をそれぞれの知識や技術分野に反映できる人間を育てたい」と語った。彼らは清里で二泊三日の自然体験研修を行い、若手社員と管理職が共に森を歩きながら語り合った。公害対策の時代を生きた世代と、新しい環境の世代が向き合い、互いの価値観を確かめる合宿である。荏原ではこれを「環境セミナー」と呼び、自然の中で企業の未来を考える試みとして続けた。

また、荏原は「環境貢献褒章制度」をつくり、社員が自宅や地域で行ったリサイクルや清掃活動を評価した。どんなに小さな行為でも記録すれば表彰の対象となり、「だれもが環境保全に参加できる企業文化」を目指した。アンケート調査では、「環境に関心がある」と答えた社員が八八パーセントに達し、若い世代ほど「生活を変える」と答えた一方、年配層は「寄付や協力」を選ぶ傾向が見られた。埋田は、「環境教育は即効性のあるものではなく、長い時間の中でようやく効果を生むもの」と静かに語った。その姿勢には、教育を数値で測らず、時間の熟成によって人を育てようとする信念があった。

この二社の取り組みには、共通した精神が流れている。それは、技術から倫理へ、産業から文化へという時代の変化を敏感に感じ取る感性である。九〇年代中頃には、市民運動やNGOが台頭し、環境庁も教育政策の新たな方向を模索していた。企業はその波を自らの内部へ取り込み、社員を「環境市民」として育てることに踏み出した。三菱電機の体系的教育と荏原の感性教育は、異なる道を歩みながらも、同じ結論へと向かっていた。環境とは技術ではなく、人の心の問題であるという気づきである。

一九九六年三月、両社の言葉には、時代を超える響きがあった。工場の煙の向こうに、森と海を思い、数字の裏に未来の子どもたちを思う。そうした静かな想像力こそが、環境教育の出発点だったのである。

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