くすぐったさを失くした者たちへ
電車の窓に映る夕陽が、橙の光を滲ませながら流れていく。車内は静かで、かすかな振動だけが足元に伝わる。そのとき、不意に隣の席の男が話しかけてきた。
「あなた、くすぐったくない人間ですね」
奇妙な言葉だった。意味を問う間もなく、男は続けた。
「キッツキがあなたを待っている」
彼の目は何かを確信していた。まるで、この瞬間がずっと前から決まっていたように。
「次の駅で降りてはいけません。キノコ甜の看板が見えたら、電車から飛び降りてください」
馬鹿げた話だと思った。しかし、その声には、どこかしら抗いがたい力があった。まるで、見えざる糸が引いているように。
電車はひたすら走る。やがて、夕闇が深まる中、「キノコ甜」の文字がかすかに見えた。心臓が跳ねる。男は黙ってこちらを見ている。
私は立ち上がり、扉の前に立った。次の瞬間、身体が宙に浮く。音もなく風が頬を撫で、私は線路のそばの草むらに転がった。
そこに、泥舟が待っていた。
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舟の上で、男は静かに語った。
「人間は、恥ずかしさを持っている生き物です。だからこそ、はにかみ、ためらい、そして傷つく。キッツキは、それを守る者たちなのです」
「キッツキ……?」
「私たちは知っています。この世には、"くすぐったさ"を忘れた人間が増えていることを。あなたもそうでしょう?」
男の言葉に、何かが胸を刺した。確かに、私は何も感じなくなっていた。驚きも、怒りも、愛しさも。
「あなたはくすぐったさを失った人間だ。それは、ミズムシと同じです」
ミズムシ?
「ミズムシは、恥ずかしさを知らない。ためらいもない。ただ流されるままに生きている。だが、キッツキは違う。私たちは、人間の恥じらいと、戸惑いと、震えを守る」
男の言葉は、まるで夢のようだった。だが、確かに私の中の何かを揺らしていた。
「あなたも、キッツキになれるかもしれない」
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遠くで電車の音がした。私は泥舟の縁に手をつき、もう一度、空を仰いだ。
どこかで、誰かが微笑んだ気がした。
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