身体は世界にほどけている ベルクソン「物質と記憶」 一九世紀末思想の射程
ベルクソンが描く身体は世界から切り離された主体ではなく無数のイマージュが連続する場の内部に埋め込まれた一つの節点である。外界の物と自分の身体は質的に異なる存在ではなく行為を起こしうる中心として身体が特権的な位置を占めているにすぎない。知覚は頭の中に作られた像ではなく身体の周囲で起こる世界の変化そのものとして外側にあり身体はそれに直接触れている。机を見るとき机の像が内側に投影されるのではなく机というイマージュと身体というイマージュが一定の関係を結ぶことが知覚である。したがって外界と内面は本質的に断絶しておらず身体は世界と相互作用を続ける半透明の膜のような存在として理解される。ベルクソンが身体と世界の連続性を強調するのは観念論が外界を心の中に閉じ込める誤り
を避けるためであり機械論が心を付け足すしかなくなる困難から距離を置くためでもある。世界に連続的なイマージュの場がありその中に身体が位置づくと考えることで外がどのように内に届くのかという問題は形を変え外と内はもともと接しているという理解が可能になる。ベルクソンのこの視点は記憶や自由を断絶ではなく連続の地平から捉え直すための基盤となっていく。
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