Friday, May 2, 2025

庭場に吹く解体の風――西海家と神農同志会の興亡(1973〜1989)

庭場に吹く解体の風――西海家と神農同志会の興亡(1973〜1989)

仙台に拠点を構える的屋組織・西海家は、大正期に横田末吉によって創設された。初代・西海富次郎の名を継ぎ、東北一円に庭場(にわば)と呼ばれる露店興行の利権を広げた。関東の西海家との縁もうかがわれるその由緒ある系譜は、戦後を経て三代に渡り受け継がれ、1973年、四代目総長に就いたのが藤川勝治であった。

藤川の時代は的屋が広域暴力団(博徒)に呑み込まれる圧力の中で始まった。1980年代、山口組・稲川会・住吉会といった博徒系勢力が東北へ進出する動きが強まり、藤川はその流れに抗して、東北六県の17の的屋団体と連携し、1986年に「東北神農同志会」を結成する。この連合は、外来の力に対抗するための防波堤であり、西海家はその中心的存在であった。

同志会は、伝統的な庭場を守るための会則を定めた。中でも注目されたのは第27条である。分家が稼業違い、すなわち博徒系組織に移籍した場合、庭場は本家に返還され、本家自身が移籍した場合には、庭場は同志会に預けられるとした。この条文は、西海家のような本家格の組織が庭場を守るための防衛線でもあった。

だがその防衛線は、わずか一年あまりで綻びを見せる。1987年、青森県浅虫温泉にて、「浅虫温泉抗争」と呼ばれる流血事件が起きた。銃撃により2名が死亡、1名が重傷を負ったこの抗争は、同志会内部に潜在していた対立が噴出したものであった。とくに、会則をめぐる解釈や庭場の支配権に対する意見の相違が火種となった。

この事件を境に、同志会の結束は急速に崩れていく。警察は抗争を契機に介入を強め、加盟団体の中には、かつて敵と見なしていた博徒系団体へ寝返る者も現れた。1989年には、梅家一門が稲川会に、寄居家一門が住吉会に移籍し、同志会は名実ともに瓦解した。

藤川勝治もまた、その年をもって総長の座を退いた。組織の維持を単独では図れなくなった西海家は、住吉会傘下に加わるという決断を下す。こうして西海家は、「住吉会九代目西海家」として再出発し、五代目・菅原孝太郎のもとで、地方支部としての新たな道を歩み始める。

藤川の時代は、的屋の伝統と矜持、そして連帯の理想が一瞬の光芒を放ち、やがて現実の抗争と瓦解に呑み込まれていった時代であった。彼の築こうとした東北の的屋連合は、内部崩壊によって幕を閉じ、暴対法施行の時代を迎える前に姿を消した。

西海家の名は残ったが、それはすでに、地域の顔役としての輝きを失い、広域組織の末端に位置する、別のかたちの「生き残り」であった。

――それは、解体の風が吹き荒れた昭和末の、的屋たちの最後の抵抗の物語である。

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