魂をつつむ川-空間を捨ててあらわになる真の持続(1890年代)ベルクソン「時間と自由」
ベルクソンが「真の持続」と呼ぶものは、まず何よりも、私たちの日常的な時間理解が無意識のうちに空間的イメージへと偏ってしまうという癖への徹底した批判から始まる。ふつう私たちは、時間を一本の線分として描き、そこに点のような瞬間を並べ、過去・現在・未来を区切る。この段階ですでに、時間は空間的な形式へと置き換えられており、そのため時間の本来の質的な流れが失われてしまうとベルクソンは考えた。
では、空間化を取り払ったとき、どのような時間が現れるのか。それがベルクソンのいう「真の持続」である。意識の内部では、情動や記憶が互いに溶け合うように重なり、完全に区切られた瞬間というものは存在しない。たとえば、怒りや悲しみの感情が完全に断絶して切り替わるのではなく、余韻や名残とともに次の感情へと移り変わるように、持続はグラデーションのように滑らかな厚みをもつ。この厚みは、時間を点の連続として扱ってしまうと見えなくなってしまうが、実際には意識を構成するもっとも根源的な層として働いている。
ベルクソンがメロディの譬えを重視したのもそのためである。旋律は、一つひとつの音符を切り離して足し合わせても理解できない。前の音が余韻を残し、それが次の音に浸透することで、はじめて一つの流れとして聴こえてくる。このように、持続は「部分の集合」ではなく、「全体として響く変化」である。時間を記号化する前の、生きた体験そのものがそこに宿っている。
現代の神経科学や時間知覚研究でも、この"全体性としての現在"が議論されるようになっている。視覚や聴覚の処理は、数学的な点のような瞬間ではなく、数十から数百ミリ秒程度の「統合窓」によって束ねられ、その中で私たちの"今"が形成されると考えられている。複数の感覚から入力される信号は、脳内で同時ではないにもかかわらず、一つのまとまりとして知覚される。これは、「瞬間は点である」という前提よりも、「現在は一定の幅をもつまとまりである」と考える方が実態に近いことを示す知見であり、ベルクソンの直観と大きく共鳴する。
こうした理解に立つと、時間とは単なる量でもなく、足し算可能な点の列でもなく、「絶えず自身を編み替えながら進むひとつの流れ」であることが見えてくる。生きられた時間の内側では、未来への期待や過去の残響が現在の感じ方を変化させ、つねに新しい全体を形成している。ベルクソンが示そうとした「真の持続」とは、まさにその、測定では捉えられない生命的な時間の姿である。
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