Thursday, December 11, 2025

北関東の市に響くテキヤ親分の職業哲学 1985-1986年頃

北関東の市に響くテキヤ親分の職業哲学 1985-1986年頃
八幡神社の受付が進む冬の朝、ひときわ存在感のある親分の語りは、市そのものが語りかけているような迫力を持っていた。まず彼は、ホンドバとガリの差を数字で鋭く示す。「ホンドバとガリじゃ、売り上げが何倍、いや何十倍も違う」。参道中央や鳥居前といったホンドバは、客の流れが集中し、一日どころか一年の稼ぎを左右する。しかしガリと呼ばれる周縁の場所では、その何分の一しか売れないことも珍しくない。市の空間は見た目には平等に並んでいても、経済的には高低差の激しい地形であり、その地図を誰より鮮明に読み切っているのが、この親分なのだとわかる。
彼は続けて、「庭は生命線だ。荒らされたら体張って死守する」と言い切る。庭とは一家が管理し、露店の配置や秩序を担う領域のことだが、これは単なる場所ではなく、地域との信用、露店の生業、祭礼文化の土台が一体になった生活基盤だった。無断の店が入り込んだり、値段を崩す者が現れたりすれば、市は崩壊し、翌年以降の開催さえ危うくなる。1980年代半ば、まだ暴対法以前で、市や縁日の安全は、こうした裏方のネットワークによって保たれていた。その責務の重さが、「生命線」「死守する」という言葉の背後を支えている。
さらに印象的なのが義理がけの話だ。「月に5回の冠婚葬祭があればたまらねえよ。だが、やめるわけにもいかねえ」。義理がけは、冠婚葬祭や一家行事に包みを持って必ず出向く慣習で、人間関係を支える実質的な信用の通貨だった。合理的に見れば出費は重い。それでも義理を欠けば、ショバの融通、困ったときの助け、遠方の市への参加など、見えない支援の網がほどけてしまう。義理がけは、生業の保険であり、地域のネットワークを維持する投資でもあった。
1985-1986年頃の日本は消費社会が加速し、大型店が台頭し、古い商店街が衰退していく一方で、縁日や初市は顔の見える経済圏として独自の時間を刻んでいた。現金商売と関係性が中心のこの世界では、数字と情、空間と伝統が重なり合い、外からは見えない精緻な経済哲学が働いていた。親分の語りには、その世界の論理と感情が一気に流れ込み、市を支える基盤がどれほど複層的で、人間くさく、そして文化的であったかが読み取れる。
この語りが本書のハイライトと言われる理由は、単なる裏話の面白さではなく、市という場を守り続けてきた一つの職業倫理と、美意識と、経済観が、鮮やかな言葉となって立ち上がるからである。

No comments:

Post a Comment