Wednesday, December 10, 2025

ゆらぎの奥で灯るもの-偶然でも因果でもない自由の源泉(1890年代)ベルクソン「時間と自由」

ゆらぎの奥で灯るもの-偶然でも因果でもない自由の源泉(1890年代)ベルクソン「時間と自由」
ベルクソンが『時間と自由』で問題にしたのは自由行為を偶然と因果のどちらかで理解しようとする近代的枠組みそのものである。偶然は外部からの予測不能な揺らぎであり因果は外部の条件が必然的に結果を押し出す図式である。しかしこれらは行為を外側から分類しようとする視点にすぎず自由行為が生まれる内的な生成の場を捉えていない。自由行為はこの外的分類に収まる種類の事実ではなく人格全体が成熟して放つ質的な出来事でありその根源は外部ではなく内側の意識の持続にある。ベルクソンは人間の内面が記憶感情価値観経験の寄せ集めではなくそれらすべてが溶け合い重なり合いながら流れる持続である点を重視した。この持続は部分的に切り分けられずまた要因ごとに数量化して説明できる性質のものではない。
ある行為が生じるときそれは怒り理性経験といった要素の足し算ではなく人格の持続がその瞬間に全体として凝縮し一回的に結晶する過程である。したがって外的因子を積み重ねても自由行為そのものには到達できない。行為は部分の集合ではなく全体としての私の質的状態の発露だからである。ベルクソンにとって自由を偶然と同一視する立場は自由を無根拠なランダム現象に矮小化する誤解である。偶然に還元された行為には人格の統一も責任も成熟も入り込む余地がない。一方決定論は行為が先行条件から必然的に決まるとみなすがこの因果図式は行為が過去の出来事となった後で振り返るときに作られた説明の線にすぎず行為が生成する瞬間の厚みを捉えていない。近年の神経科学や複雑系研究では行為決定は単純な入力出�
�ではなく脳全体の状態が閾値を超えたときに非線形的に切り替わる過程として理解され感情期待記憶が絡み合う動的ネットワークの生成として説明される。これは行為が多数の要因の総和ではなく人格全体の質的飛躍として成立するというベルクソンの洞察と響き合う。自由とは偶然と因果の中間点ではなくそもそもそのどちらにも属さない次元に開かれた現象であり人格の持続がその瞬間に全体を引き受け決断へ結晶させる出来事である。

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