境界に棲む第三の実在 イマージュで観念論と実在論の袋小路をほどく 1896年から今日
イマージュとは、事物そのものでも、心のなかの表象でもない。それでいて虚構として退けられるものでもない。ベルクソンは「物質と記憶」において、世界をイマージュの総体として捉え直し、物と表象を最初から切り離してしまう思考の癖をいったん止める。ここでのイマージュは、見えるものとして現前しているが、誰かに見られていなくても成り立つ現前である。したがって知覚は、世界を新たに作り出す行為ではなく、行為に必要な分だけを世界の連続から切り出す操作となる。身体はその切り出しの中心であり、脳や神経系は世界を生成する装置ではなく、選別と中継を担うフィルターとして位置づけられる。
この構図は、観念論と実在論の双方に対する批判を同時に含んでいる。観念論は、世界を表象の側に回収し、外部の抵抗や偶然性を心の内へ閉じ込めがちである。一方、実在論や唯物論は、物質が表象を生むと考えることで、物の側に表象生成という余分な能力を仮定してしまう。ベルクソンは、物はそれ自体がイマージュであり、表象とは身体の行為可能性に応じて選び取られた部分にすぎないと考える。このとき、知覚と物質の差は本質的断絶ではなく、全体と部分の違いとして説明される。
さらに重要なのは、精神から物質を、あるいは物質から精神を一方的に導こうとする試みが、必ず循環に陥るという指摘である。精神から物質を導くには、精神の側に物質を生む原理が要り、物質から精神を導くには、物質の側に表象を生む原理が要る。どちらも相手の前提を密かに持ち込む結果になる。イマージュという中間概念を置くことで、ベルクソンはこの袋小路を回避し、心身問題を二項対立ではなく、機能と役割の差として組み替える道を示した。
No comments:
Post a Comment