吉原花魁:新造の袖に降る金子 吉原を揺るがす突出しの経済負担(江戸後期)
新造のデビューである「突出し」は、吉原のなかでも特に派手で、しかも金のかかる儀式だった。禿として育てられてきた少女が、いよいよ一人前の遊女として客を取る段階に入るとき、その門出を大々的に宣伝するのが、新造出しから突出しまでの一連の行事である。近年の解説でも、新造出しの十日ほど前から、妓楼の内外や引手茶屋、船宿などに蕎麦や赤飯を配り、当日は反物や道具一式を並べて盛大にお披露目したとされ、その費用はすべて姉女郎たる花魁の負担だったと明記されている。
突出しの段階になると、さらに一歩進んだ「金のばらまき」が求められた。新造が茶屋へ挨拶回りをしてデビューする「道中突き出し」は、特に見込みのある新造が対象で、引手茶屋に顔を売るための巡回でもあった。ここで配られる祝儀が、しばしば引用される「金一分ずつ」である。金一分は江戸の貨幣体系で言えば四分の一両にあたり、庶民の感覚ではひと月分前後の生活費に匹敵する高額な単位だと説明されることが多い。その一分を、引手茶屋の主人や若い者、仲介役、芸者筋など複数の相手に配っていくのだから、総額は遊女一人の手に余る規模となる。
引手茶屋は、表の張見世ではなく、「目利き」と人脈で客を妓楼に送り込む中枢であり、ここにしっかり祝儀を配ることは、新造が将来よい客を斡旋してもらうための営業費でもあった。茶屋側も、よく祝儀を出す一門には自然と良質な客を回し、そうでない一門には冷淡になる。そのため突出しの祝儀は、単なる祝いではなく、吉原内部のネットワークに新造を正式に組み込むための入場料のような意味合いを持っていたと言える。
問題は、こうした費用の負担元である。新造出しや突出しにかかる反物代、菓子や蕎麦・赤飯のふるまい、そして金一分ずつの祝儀は、基本的に姉女郎である花魁と、その馴染み客の財布から出されるとされる。花魁は自分だけでなく、新造や禿という「一家」を抱える立場にあり、その家族的単位の格を保つために、見栄を張らざるを得ない。馴染みの客も、花魁一門の晴れの日に吝嗇では粋でないとされるため金を出すが、その多くは結局、花魁側の新たな借金として帳場に積まれていく。
こうして、新造が晴れやかに吉原中を挨拶して回るその陰で、祝儀の小判や分金があちこちに転がり落ち、その一枚一枚が花魁と新造一門の負債として数字に変わっていく。新造にとっては栄えある門出でありながら、その門出は同時に「借金生活の本格的なスタート」でもあった。吉原全体から見れば、突出しは新人を市場に投入するための大きな広告キャンペーンであり、その広告費は遊女側の肩にのしかかる仕組みだったのである。
新造の袖が風に揺れ、白粉と香の匂いをまき散らして通りを歩くとき、その後ろには引手茶屋や若い者たちの笑顔とともに、見えない勘定書きが何枚もぶら下がっていた。金一分の祝儀は、新しい遊女の人生のスタートを飾る金貨であると同時に、姉女郎一門の負担をさらに深くする重りでもあった。
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