Sunday, December 14, 2025

対話としてひらかれる中間領域 イマージュが結ぶ哲学の新しい地平 1900年から今日

対話としてひらかれる中間領域 イマージュが結ぶ哲学の新しい地平 1900年から今日

イマージュという概念は、対象を心の内部で抽象化した表象でもなく、対象を物理的事実として固定したものでもない。その両極のあいだに位置づけられる、独自の実在の様態である。ベルクソンは二十世紀初頭の認識論が、観念論と実在論という二つの立場を往復するばかりで、問題の構造そのものを十分に問い直していないと考えた。観念論は、世界を意識の側へ引き寄せ、表象として回収することで外部の抵抗や偶然性を弱めてしまう。一方で実在論は、物質を強調するあまり、表象や知覚をどのように説明するのかという点で、物質の側に余分な能力を仮定せざるをえなくなる。この両者の往復運動は、結局のところ、どちらか一方を前提にして他方を説明しようとする循環に陥る。イマージュは、この閉じた運動そのものを
外側から断ち切るために導入された中間概念である。

この枠組みにおいて、世界は最初からイマージュの総体として描かれる。世界は、知覚されてはじめて像になるのではなく、知覚以前から像として存在している。知覚とは、その連続的な全体が、身体との関係において部分的に切り出された状態にすぎない。知覚と対象は、主体と客体として対立するものではなく、同じ連続のなかで異なる働きを担うものとして理解される。このときイマージュは、主体と客体を結びつける媒介であると同時に、その区別そのものを相対化する場となる。知覚は世界に何かを付け加える行為ではなく、世界の内部で成立する関係の一形態である。

この発想は、認識論を静的な対応関係の理論から、動的な相互作用の理論へと押し出す力を持っていた。知るとは、正しい表象を頭の中に写し取ることではなく、世界を満たすイマージュの流れのなかで、身体がどのように関与し、どのような行為の可能性を開くかという問題になる。その意味でイマージュは、認識論にとどまらず、存在論や行為論を横断する哲学的対話の場を開いた概念である。二十世紀半ば以降の現象学、とりわけメルロポンティの身体論において、知覚が生きられた関係として捉え直された背景には、ベルクソン的な中間概念の影響があると指摘されてきた。

近年では、スタンフォード哲学百科事典のベルクソン項目や、フランス哲学史の研究においても、イマージュは観念論と実在論の二項対立を超えるための重要な理論装置として再評価されている。また、知覚を行為や環境との相互作用として理解する立場との接点から、哲学と認知科学の対話においても参照されることがある。イマージュは、単なる歴史的概念ではなく、世界と知覚の関係をあらためて問い直すための、現在進行形の思考の足場として読み直されている。

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