Sunday, May 4, 2025

義と家のあいだ――やくざと家庭幻想の変容・1970年前後

義と家のあいだ――やくざと家庭幻想の変容・1970年前後

1970年前後の日本社会では、戦後の復興期を越えて、高度経済成長が頂点を迎えようとしていた。その一方で、学生運動の挫折や公害の深刻化、都市の過密化、そして核家族化の進行によって、「昭和の陰り」が人々の心に忍び寄っていた。そうした時代の亀裂と不安は、映画や小説、演劇といった表現文化のなかで、しばしば「やくざ」という存在を媒介として描き出されていた。作家・五木寛之と野坂昭如の対談では、やくざという人物像の変容、特に家庭への関心と欲望に光が当てられている。

かつてのやくざ像は、「任侠道」に象徴されるように、国家や法律とは異なる独自の倫理を貫く"裏の武士"として描かれていた。高倉健や鶴田浩二に代表される東映映画のスターたちは、無言の覚悟と冷ややかな眼差しを武器に、義理と人情の美学を体現していた。しかし五木と野坂が指摘するのは、こうした英雄的な像の崩壊である。時代の空気を吸い込んだやくざたちは、小市民的な価値観に染まり、家庭を持ちたがるという一見矛盾した願望に取り憑かれていた。

この「家庭への執着」は、当時のやくざ映画のストーリー構造にも色濃く反映されている。多くの作品で、主人公は妻や子供を何者かに奪われ、それをきっかけに復讐に向かう。かつて共同体や任侠の論理で動いていたやくざが、私的な情念、すなわち「うちのカミさんを傷つけられた」ことへの怒りを原動力とする存在へと変わっていく。五木は、この変化を通じて、やくざの暴力が組織や国家に対するものではなく、個人的な喪失と孤独に根ざしたものとなったことを看破する。

一方、野坂はその変質を「やくざの主婦化」と皮肉り、暴力の担い手が家庭という制度にすがる姿を滑稽に描く。本来、家制度や社会の規律から逸脱していたはずのやくざが、むしろ家庭という幻想のなかに安息を求め始めていた。それは暴力の社会性が失われたこと、あるいは共同体への信頼が消え失せた時代において、唯一残された帰属先が「家」であったことの証左である。

1970年という時代は、赤軍派の過激化や浅間山荘事件を目前に控え、国家や理念への信仰が崩壊しつつあった。個人は、国家や革命ではなく、最小単位のユートピアとしての家庭に救いを求めていた。そして、やくざという存在もまた、かつての義理人情を脱ぎ捨て、家を守るための暴力という新たな物語をまとうことになる。

この対談は、やくざ映画に描かれる暴力と義理のロマンティシズムを超えて、日本人の深層に流れる「家庭幻想」と「私的復讐」の構造を鮮やかに照らし出した。やくざは、かつての無頼を捨て、それでもなお"帰る場所"を求める孤独な魂へと変貌した。その姿は、まさに1970年前後という時代の、静かな叫びのようであった。

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