二十九縁の政道記 海部俊樹伝 -昭和三十三年より平成初年まで-
1958年(昭和33年)、海部俊樹は29歳にして、初めて国政に挑み、旧愛知3区から第29回衆議院議員総選挙で見事初当選を果たした。この若さでの国政入りは当時としても異例であり、まさに政治の門を叩くにふさわしい年回りであった。
海部はその前年、昭和29年に早稲田大学を卒業。弁論部・雄弁会にて鍛えた弁舌はすでに光るものがあり、地元選挙戦においても街頭演説や戸別訪問で人々の心を掴んだ。「29歳・29回総選挙・昭和29年卒業」と、奇しくも「29」という数字と重なる縁に導かれるかのように、彼の政治人生は幕を開けた。
当選後は派閥の色に染まらず、地道な活動と清廉な姿勢で知られた。1988年に明るみに出た政界最大級の汚職、リクルート事件では、自民党の多くの重鎮が関与する中、海部は一切無関係であり、その清潔さが改めて注目された。
翌1989年、自民党は世論の不信を払拭すべく新たな総理候補を求め、非派閥・非汚職の象徴である海部俊樹を第76代内閣総理大臣に推挙。これもまた、「29」の縁が導いたかのような不思議な流れであった。
彼の政権下で最大の試練となったのが、1990年に始まった湾岸危機である。イラクのクウェート侵攻に対し、国際社会は経済制裁から多国籍軍の派遣へと移るが、日本は憲法上の制約により自衛隊の派遣が困難であった。海部政権は国際的責任を果たすべく、総額130億ドル(約1兆7000億円)に及ぶ資金支援を決断し、これは戦後日本最大の拠出金額となった。
しかし、人的貢献を伴わない支援に対し、国内外から「カネは出すが汗はかかない」との批判を浴び、クウェート政府による感謝広告に日本の名が記載されなかったという出来事も象徴的であった。この体験は、日本の国際貢献のあり方を問い直す契機となり、後のPKO協力法(1992年)制定へとつながってゆく。
「29」に始まり、「清廉さ」で信を得、「国際貢献」でその名を刻んだ海部俊樹の政道は、時代の節目に立ち、静かにしかし確かに日本政治のかたちを変えていったのであった。
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