Thursday, March 13, 2025

戦時下の輸送船航海と見張り任務の実態――鎌倉丸の事例(1941年~1945年)

戦時下の輸送船航海と見張り任務の実態――鎌倉丸の事例(1941年~1945年)

1. 日本の輸送船の運命と戦略的背景
太平洋戦争(1941-1945年)において、日本軍の戦略の中核を担ったのは、広大な太平洋の島々への兵員や物資の輸送であった。しかし開戦当初こそ優勢だった日本海軍も、戦争が進むにつれ米軍の反撃を受け、日本の制海権は急速に脆弱なものとなっていった。特に1943年以降、アメリカ軍の潜水艦戦術は飛躍的に発展し、日本の輸送船団は大きな脅威にさらされた。

米軍は「ウルフパック戦術(群狼作戦)」を駆使し、複数の潜水艦が連携して日本の輸送船を待ち伏せる戦法を展開した。フィリピン近海やバシー海峡は、まさにその標的となる「死の航路」と化しており、多くの日本の輸送船が撃沈されている。

そのような状況の中、日本の輸送船はしばしば護衛艦なしで単独航行を余儀なくされることもあった。その理由として、日本海軍の護衛艦艇が不足していたこと、また日本の軍事指導部が航空戦力や決戦艦隊の運用を優先し、護衛艦を十分に確保しなかったことが挙げられる。このため、多くの輸送船が敵潜水艦の格好の標的となり、連合艦隊司令部の報告によれば、戦争中に撃沈された日本の輸送船の総数は2000隻以上に達した。

2. 輸送船「鎌倉丸」と便乗兵の役割
このような状況下で航行していたのが、元々は豪華客船であった「鎌倉丸」である。戦前は「秩父丸」としてアメリカ航路に就航していたが、戦争が始まると日本海軍に徴用され、兵員や物資の輸送に使われるようになった。

鎌倉丸のような輸送船には、陸軍兵、技術者、工兵、さらには一般の徴用労働者など、多様な人員が詰め込まれていた。船内は混雑を極め、通路や階段下、甲板の隅々にまで人が溢れ、乗船した者は足の踏み場もないほどであった。

輸送船には正規の海軍乗組員が配置されていたものの、便乗兵たちも任務を与えられた。特に重要だったのは、敵潜水艦の接近をいち早く察知する「見張り役」である。これは通常、航海の専門訓練を受けた者が担う任務であったが、便乗兵の中からも適任者が選ばれた。

(以下省略)

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