### 「斎場の凶弾 - 2001年から2003年の抗争記」
2001年8月15日――東京都葛飾区の四ツ木斎場には、静かに流れる読経の声と香の煙が漂っていた。ここでは、住吉会向後睦会の会長・熊川邦男の通夜が執り行われていた。弔問客の中には、関係者だけでなく、対立する組織の者たちも混じっていた。
しかし、その静寂を打ち破るように、二つの影が斎場へと忍び込んでいた。稲川会系大前田一家の幹部二名――彼らは、まさに今、この場で決着をつけるつもりだった。
一瞬の沈黙。
次の瞬間、銃声が鳴り響いた。熊川邦男は倒れ、血が畳に広がっていった。さらに、住吉会滝野川一家総長・遠藤浩司にも凶弾が放たれた。通夜の場は一転し、悲鳴と怒号が交錯する。襲撃者たちはすぐにその場を離れた。
この事件は、暴力団の世界において「仁義外れ」とされた。通夜や葬儀といった「義理事」には手を出さない――それが不文律であった。しかし、この掟を破る襲撃により、住吉会と稲川会の間には深い溝が生まれた。
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### 住吉会向後睦会
住吉会傘下の向後睦会は、東京都新宿区歌舞伎町に本部を構え、関東各地に影響力を持つ組織であった。創設者である向後平の後を継いだのは、住吉会の重鎮西口茂男。そして、彼の高弟である醍醐正夫が現在の五代目を務める。
通夜の場で起きた熊川邦男の死は、向後睦会にとって許しがたい屈辱だった。組員たちは復讐を誓ったが、稲川会は即座に関与した組員を処分し、住吉会側と手打ちを試みた。しかし、これに納得しない者たちがいた。
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### 稲川会大前田一家
幕末の侠客・大前田栄五郎を祖とする大前田一家は、時代を超えて稲川会の主要組織となっていた。四ツ木斎場事件の首謀者たちは、組織の名誉のために熊川邦男の死を狙ったとされる。
事件の直後、稲川会は手打ちを進めたが、住吉会の中では納得しない者が多く、不満は次第に爆発へと向かっていく。
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### 「前橋スナック銃乱射事件」 - 2003年1月25日
それから約1年半後、群馬県前橋市にあるスナックで、住吉会系組員による報復が実行された。標的は、大前田一家と関係のある店だった。
店内には、何も知らずに酒を楽しむ一般客もいた。
突如として、銃声が響く。ガラスが砕け、店の壁に銃痕が刻まれる。撃たれたのは、大前田一家関係者だけではなかった。罪のない一般人3名が巻き込まれ、命を落とした。
この事件は、四ツ木斎場事件の報復として発生し、結果的に抗争はさらに激化していくこととなった。
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### 「抗争の終焉」
四ツ木斎場で放たれた一発の凶弾が、波紋のように広がり、さらなる死者を生むことになった。暴力団の世界でさえ破るべきでなかった仁義が崩れ、その代償はあまりにも大きかった。
2003年の前橋スナック銃乱射事件を経て、住吉会と稲川会の抗争は次第に沈静化へと向かったが、それは組織の衰退と共にあった。暴力団同士の対立は、やがて社会の規制強化と組織の弱体化を招くこととなったのである。
それでも、四ツ木斎場の静寂を破ったあの銃声は、今もなお「仁義なき抗争の象徴」として語り継がれている。
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