新宿の夜に消える浮草—昭和三十年より四十年にかけての矢島武信と安藤昇の語らい
雨上がりの新宿、ネオンが水たまりに滲んで揺れている。賑やかな街の喧騒を抜け、安藤組の事務所に入ると、畳の上には一升瓶と湯呑みが二つ。煙草の煙が天井でゆっくり渦を巻いていた。
「矢島、お前、最近ちょっと鼻が利きすぎてねぇか?」
安藤昇がウイスキーのグラスを揺らしながら、じろりと睨む。矢島武信は肩をすくめ、湯呑みを手に取る。
「親分、それは買いかぶりってもんですよ。鼻が利くってのは、あっちの飯場に首突っ込んでる連中の話で、こちとら目先の一杯で精一杯です。」
「おいおい、そりゃまたずいぶんと謙虚じゃねぇか。お前くらいの渡世人が『飯場』なんて呑気なこと言ってたら、後ろからいきなり足払い喰らうぞ。」
「そりゃそうですが、先に転がるのは大体、口の軽い鼠じゃないですか。俺はまだ、この街で長生きしたいんで。」
安藤は煙を吐き出しながら、ニヤリと笑う。
「お前、口が達者な割に、しっかり堅気の理屈も知ってるじゃねぇか。ま、だからこそ俺もこうして酒を酌み交わせるってわけだ。」
「親分の口車に乗せられてるだけですよ。気づいたら片足が新宿の底に埋まってるかもしれませんし。」
「バカ言え。新宿に底なんてねぇよ。あるのは、浮草みてぇに流れる連中と、いつの間にか消えちまう影だけだ。」
矢島は湯呑みをゆっくりと置いた。夜の街は相変わらず喧騒を続けている。獣道を進むのか、それとも浮草のように流されるのか。安藤の目は何も語らなかったが、その奥には、どこか楽しそうな光が揺らめいていた。
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