Tuesday, March 11, 2025

スクリーンに刻まれた青春――1978年、アートシアター新宿の夜

スクリーンに刻まれた青春――1978年、アートシアター新宿の夜

1978年、新宿のアートシアターは、ひとつの映画館以上の存在だった。ここは、大手映画館では扱われない実験的な作品や、商業主義からこぼれ落ちた名作が静かに息づく場所であり、時代の狭間に生きる者たちの拠りどころだった。そんな劇場で、ある晩二本の日本映画が再びスクリーンに映し出された。ひとつは、灼熱の砂浜で無軌道に暴れ回る若者たちを描いた『八月の濡れた砂』。もうひとつは、戦前の不良少年の喧嘩と哀しみを描いた『けんかえれじい』。二つの作品は、時代こそ違えど、同じ「青春の疼き」を持っていた。

『八月の濡れた砂』は、1971年に藤田敏八監督によって世に送り出された。湘南の夏の風景の中で、若者たちは何かを求め、何かに抗いながら、どこにも行けないまま彷徨っていた。高度経済成長の波に飲み込まれ、社会の枠組みの中で自らの居場所を見失った70年代の青春像が、この映画の中には凝縮されている。主題歌を手がけた佐藤博の「八月の濡れた砂」は、映画とともに語り継がれることとなる。日本が学生運動の熱を冷まし、次第に現実へと飲み込まれていく中で、この映画は「行き場のない魂たち」の叫びとなった。1978年にアートシアター新宿で再び上映されたのは、失われつつあったあの焦燥感を、もう一度甦らせるためだったのかもしれない。

もう一方の『けんかえれじい』は1966年、鈴木清順の手によって生まれた。昭和初期の岡山を舞台に、喧嘩に明け暮れる青年・高橋英樹が演じる主人公の生き様が、戦争へと向かう日本社会の不穏な空気とともに描かれる。60年代は、日本の若者たちが権力に反抗し、学生運動の嵐が吹き荒れた時代だった。戦前の若者たちの暴力と衝動は、そのまま1960年代の反体制の精神に通じていた。だからこそ、この映画は単なる時代劇ではなく、60年代当時の社会そのものを映し出していたのだ。そして、70年代も終わりに近づいた1978年、再びこの作品が上映されたことには、ある種の皮肉が込められていたのかもしれない。あの熱狂はすでに冷め、学生運動の旗は降ろされていた。だからこそ、暴れることしかできなかった過去の若者の姿が、
どこか懐かしく映ったのではないだろうか。

1978年の日本映画界は、転換点にあった。ハリウッドでは前年に公開された『スター・ウォーズ』が世界を席巻し、日本国内でもエンターテインメント重視の映画が増えつつあった。大島渚監督の『愛のコリーダ』は検閲により上映禁止処分を受け、表現の自由を巡る論争が激しくなっていた。そんな時代に、アートシアター新宿は、かつての反抗と焦燥を映し出す映画を選び、スクリーンにかけた。単なる懐古趣味ではない。時代が変わろうとも、青春の痛みは消えない。スクリーンの中の彼らは、何かを求め、何かに抗いながら、ひたすらに走り続けていた。

アートシアター新宿の館内に響くフィルムの回転音の中で、かつて暴れ、叫び、そして敗れ去った者たちの影が、ぼんやりと浮かび上がる。観客はそれを見つめながら、自分の中の何かを確かめていた。あの頃、何を夢見ていたのか。何を失い、何を手に入れたのか。スクリーンの中の砂浜に、血と汗が染み込んだ喧嘩の跡に、答えはあったのだろうか。あるいは、それを求めて映画館の扉をくぐったのかもしれない。

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