Monday, February 24, 2025

夜を裂く刃 ― 1961年、山陰���行列車殺人事件の記録

夜を裂く刃 ― 1961年、山陰夜行列車殺人事件の記録

序章:暗闇を走る影
1961年(昭和36年)10月4日、秋の夜風に揺れる山陰本線の夜行列車。その静寂を破るように、列車内で一つの惨劇が幕を開けた。本多会・平田会鳥取支部の組長・松山芳太郎が、山口組・地道組傘下の山陰柳川組の刃に倒れたのだ。

事件の発端は、境港市に開かれる予定だったパチンコ店「銀座会館」をめぐる対立。松山芳太郎が進める出店計画に、地元を支配しようとする山陰柳川組が激しく反発した。交渉は決裂し、そこにあったのはただ一つ、武力による決着だった。

時代の荒波の中で
この頃、日本は高度経済成長の只中にあった。都市部では工場の煙が夜空を焦がし、地方では観光業や娯楽産業が花開いていた。パチンコ店もまた、そうした繁栄の象徴の一つであり、暴力団の新たな収益源として争奪戦が繰り広げられていた。

一方、山口組は全国制覇の道を歩んでいた。三代目組長・田岡一雄の指揮のもと、各地の地場組織を呑み込み、着実に勢力を拡大。地道組の地道行雄もまた、山陰地方をその支配下に収めるべく、着々と手を伸ばしていた。

決戦の舞台:闇夜の車両
夜行列車の中、松山は数人の組員を引き連れながら移動していた。しかし、山陰柳川組の手はすでに回っていた。列車が静かに闇を切り裂く中、松山の前に現れたのは、鬼気迫る柳川組の刺客たちだった。

包囲された松山は、刀を振るう間もなく、冷たい刃を全身に受けた。車両の明かりに照らされた血の赤が、沈黙の夜に広がる。列車は何事もなかったかのように走り続け、車窓の向こうには、静かに波打つ日本海が広がっていた。

夜が明けるとき
この事件は、山陰地方の暴力団勢力図を大きく塗り替えた。松山を失った本多会は力を失い、山陰柳川組がその地位を奪った。やがて、山口組はこの地方を完全に支配することとなる。

しかし、この夜に流れた血は、山陰の抗争の終わりを意味していなかった。それはむしろ、暴力団同士のさらなる覇権争いの始まりだった。1964年には「広島抗争」、1970年代には「第一次頂上作戦」へと続く、血塗られた道がここから始まったのである。

終章:夜の果てに
山陰の夜行列車は、今も静かに日本海沿いを走る。かつての事件を知る者は少なくなったが、その歴史は夜風に溶けることなく、どこかでひっそりと語り継がれている。

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