コンピューター付きブルドーザー ― 田中角栄の光と影 1970-1976
1970年代、日本は高度経済成長の絶頂にありながらも、政治の混迷と社会不安が渦巻く時代だった。東京オリンピックを経てインフラは飛躍的に整備され、経済は活気づいたが、その一方で公害問題や学生運動が激化し、政治への不信感は深まっていた。そんな中、異色の政治家が日本の頂点へと駆け上がる。田中角栄――彼は、官僚出身でもなく、名門の血筋でもない、叩き上げの男だった。
田中の政治手法はまるでブルドーザーのようだった。難しい議論を嫌い、すべてを力技でねじ伏せる。1972年には、誰もが「そんなに簡単にいくはずがない」と思っていた日中国交正常化をあっという間にやってのけた。慎重に時間をかけて交渉を重ねるのが常識だった日本外交において、彼は「話せば早い」とばかりに電撃的に合意をまとめてしまう。その勢いに誰もが驚いたが、「まあ、田中ならやるだろう」と妙に納得する空気もあった。
田中角栄の政治手腕は、決断の速さと実行力にあった。彼は、慎重に議論を重ねるタイプではなく、短期間で大胆な決定を下すことで知られていた。ある時、官僚が新たな予算案を持ってきた際、田中は即座に「やれ」と一言で決めてしまったという。官僚たちは通常、時間をかけて議論を進めるが、田中は「時間をかけて考える暇があるなら、すぐに動け」と指示した。これが「コンピューター付きブルドーザー」の所以だった。
しかし、その豪腕政治の裏では、派閥をまとめるための「お金のやりくり」が日常茶飯事だった。彼の目白の豪邸は、庶民派を自称するには少々派手すぎた。庭には高級な鯉が泳ぎ、政治家や財界人がひっきりなしに出入りする。ある記者が訪れた際、「庶民の宰相が住むには、あまりに立派すぎる家だ」と呟いたという。しかし、田中本人は「庶民だって立派な家に住みたいんだよ!」と開き直る。何とも豪快な理屈だった。
そして、1974年に首相を辞任。だが、田中はそんなことで消える男ではなかった。表舞台から退いても、政界に睨みを利かせ、裏から指示を飛ばし続ける。しかし、運命の転落は突然やってくる。1976年、ロッキード事件が発覚。「飛行機を売るために賄賂をばら撒いた」このスキャンダルで、日本中が大騒ぎになった。田中も例外ではなく、ついに逮捕。手錠をかけられて連行されるその姿は、まさに「栄光から転落」の象徴だった。
政治の世界において、田中角栄ほど「波乱万丈」という言葉が似合う男はいないだろう。まるでブルドーザーで道を切り開き、その勢いのまま駆け抜けた政治人生。頂点に登り詰めたかと思えば、一気に転落し、それでもなおしがみつく。彼の政治スタイルは、後の竹下登や小沢一郎へと受け継がれ、派閥政治の源流となった。豪腕、決断力、そしてお金と権力。田中が残したものは、日本政治の中に今も生き続けている。彼は英雄だったのか、それとも時代が生んだ化け物だったのか――。その答えを出すのは、今を生きる我々なのかもしれない。
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