波瀾のアリア―藤原義江が紡ぐ運命の旋律
流浪の旋律―運命に弄ばれた少年時代
藤原義江は幼少期に母親とともに各地を転々とし、大変貧しい生活を送ったと語っています。母親は芸者であり、父親はスコットランドのグラスゴー大学を卒業後、日本へ渡り、瓜生商会という貿易会社に勤めていました。父親が日本の芸者に惚れたことで藤原義江が生まれましたが、母子家庭での生活は非常に困難でした。
彼は「質屋の小僧 帽子屋の子守り 会社の給仕などを経験した」と振り返り、その貧しい暮らしが幼少期の大部分を占めていたことを明かしています。この話を知った父親が藤原義江を認知し、「日本一贅沢な学校へ入れてやってくれ」と言ったことで、学習院へ進学することになりました。
信仰の波に揺れる少年の心
藤原義江の教育環境は、彼の人生に大きな影響を与えました。学習院では「混血児だから」として入学を断られ、代わりにカトリック系の暁星学園へ入学しました。それ以前は、禅宗の寺に預けられ、幼少期は僧侶見習いとして過ごしていたこともありました。
その後、大阪では天理教へ入れられ、さらに東京へ来るとキリスト教教育を受けることになりました。彼は「子供心に どの神様が一番偉いのかわからなくなった」と語り、幼少期の環境の変化に戸惑ったことを明かしています。しかし、暁星学園では「悪くて手がつけられなかった」として退学に至ります。
偶然の旋律―オペラ歌手への道
藤原義江は、最初からオペラを志していたわけではなく、流れの中で歌手になったと説明しています。19歳の時に浅草で歌い始め、当時の大テナー 田谷力三の活躍を目の当たりにしました。しかし、正式なオペラの勉強はイタリアへ行ってからであり、それまでは独学だったと語っています。
彼はオペラに対して強いこだわりを持っており、「日本のオペラ歌手は 間違えずに歌うことだけを目的にしているが、それでは本当の芸術とは言えない」と批判しています。また、「音楽学校を卒業すると免状 資格 はもらえるが、それは授業料を取るためのものであり、観客から入場料を取ってよいとは書かれていない」と発言し、形式的な教育に対して疑問を呈していました。
食の哲学―聞き手との軽妙な対話
この対談では、聞き手が藤原義江の人生を深掘りしながらも、軽妙なやり取りが多く交わされていました。聞き手が「先生は何を召し上がってもいいんですか?」と尋ねると、藤原は「肉を食べるなと言われているが 5年長生きするよりも、肉を食べて5年早く死んでもいいくらいの肉好き」と答えています。
...(以下省略)...
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